思いつくままのコミュニケーション作法。「さぁ、ブログしようぜ!」
里山の人形師 coconooです。
こんにちは。
わたしのブログの特徴。
思いつくまま書いています。ブログ文章読本とか読むとテーマを決めて、筋立てプロットを決めて…というのが良いそうですが、わたしにはそれができない。
と、書いたことがあるんですが…、
「できない」のも本当ですが、意識して「しない」ようにしています。
心の師 内田樹先生が、ある評論だか随筆のなかで
「わたしは、講演でも文章でもインタビューでも準備をしないようにしている。
もちろんテーマを決めて、ということはあるが…。
先方から英国EU離脱についてとか、今の若者についてとか、死ぬことの作法についてとか、漫画ワンピースについてとか、さまざまなテーマを与えられることも多く、自分の専門分野でなくとも、すべてにお答えしようというスタンスでいます。
知見がなくても、準備をしないということは、
わたしは前もって、わたしが何を言う(書く)か、正確には予測できないということ。
そのスリリングさ、言葉の意外性、筋立ての飛躍は何ものにも変えがたい面白さ、貴重な経験なんです。」
(わたしのうろ覚え、意訳です。ご容赦を。)
わたしのブログのルールも、この師のやり方に倣っています。
なんとなくのテーマで、とにかく書きはじめちゃう。
自分で前もって、考えていなかった言葉や感情が出てくる。
きっと、伝わる人にしかわからないだろうな…。という思いが出てくる。
話はあっちこっちに飛躍し、思い出があふれ、話の展開が読めない。
ブログをはじめて、
読んでくださる方がいることを忘れずに、
格好をつけず、威張らず、大きく見せようとせず、ありままであることを心がけ、できれば少しのユーモア(余裕)が交えられればまじえ…。
(ありのまま…^_^。
実はコレが難しいですね。
禅と一緒で、体感、実行することでしか、体得できない。
素直であること、欲望を晒すこととは次元が違う。
言葉で理解するものでもない、らしくあるために金を使うことでもない。
わたしも意識しはじめて、今道半ばで20年かかった…^_^。
また、 まったく違う話になりそうなので、また今度。)
そんな「自分が何処に行くのか?」を楽しんでいます。
それで、また思い出しました。
全然違う話しですが…。
わたしが高校生だったころ、
その当時は「倫理」(内容は哲学史や道徳)という授業があり、
その先生が破天荒な方でした。
授業は始めの10分だけで
後は生徒がひとりづつ教壇にたち、「わたしが今考えていること・思うこと。」を10分くらい話し、皆で5分くらい討論したり感想をのべたりする、とてもオモシロイ授業でした。
わたしの番が回ってきて、わたしは
「この世に言葉のコミュニケーションは存在しない。すべては良い勘違いと、悪い勘違いがあるだけである。」というテーマで話しました。
「言葉とは経験であり、教育である。同じ言葉でもそこは個人個人違う。」
「同じ境遇の家庭環境だからと、仲良しになる(分かった気になる)のは頭が悪い証拠。」
「言葉はコミュニケーション手段としては本当は一番不完全。宇宙人が来たら、音楽かダンスでしか意思疎通はできない。」
「恋愛とは、相手に先立って気持ちを考えようとする、一種の病である。」
そんなことを話しました。
コレがかなり受けた。
教室中激論になり、いつも発言とかしないような人まで巻き込んで、最終的にわたしの持ち枠は延長に次ぐ延長で、計4時間使ってしまった。
…先生は笑っていました。
自分のクラスだけでなく、他のクラスからも話しをしにくる人がいっぱいいた。
すごく楽しかった。
みんなで考え方を練ってゆくような、深く考えることとは何か?を経験しました。
特に、お猿さんだと思っていたような男の子が、自身の考えを持って反論する。
面白かった。
内容については、高校生の言うことですから…。
断定的な個人的意見としてください。
あのころから、わたし自身はあまり変わらないなぁ。
また、わたしの「黒歴史」はコチラ。
とても可笑しくも、可哀想なおはなしです。
今日の写真は、お醤油小皿です。
漫画の「吹き出し」のカタチをしています。可愛いでしょう?
今日も、来てくださって、ありがとうございます。