プラダを着た悪魔。「いやらしい、わたし。」
里山の人形師 coconooです。
こんにちは。
タイトルからして目論見のある、いやらしさですが……。
一昨日、下の記事を書いて
サイバーメガネさん(id:netcraft3)から、
ブックマークに、コメントを頂きました。
『私は高校〜大学の時に「車は地球環境を汚染する。煙草の副流煙より人類の脅威」「車によって道路は日常的に死の危険性が蔓延しているが消費社会がその狂気を隠蔽してる」と思って免許を取りませんでした。青かった… 32 clicks』
リンク2016/12/03
実はわたしも、そう思っている。
今でも。
「クルマほど、醜い乗り物はない。
貴重な化石燃料を燃やして、何故50kgを運ぶのに、1トン以上もの鉄の塊を動かす必要があるのか?
自転車は止まっていても、美しいのに。」
「だいたい、輸入車とかのブランドってなんだ?
本当に優れたものなのか?
プリウスに、初めからベンツのマークをつければ、ありがたがるんじゃないのか?
モノでしかないブランドに、自分を仮託していいのか?」
と、いう気持ちと
「クルマの機械としての美しさや、技術の精妙さは、人にしか作り出せないものだ。」
「ブランドは飾りではなく、ブランドは物語であり、デザインだけではなく、そのブランドを維持する労力は計り知れない。」
と、いう気持ちが、わたしの中でなんの矛盾もなく両立しているんです。
アン・ビバレントな感情が不安定にあるのではなく、同価値のこととして、自分の中の同じ地平に静かに存在する…。
わたしの捻れた性格、
屈託のある性格…でございます。
タイトルは、映画「プラダを着た悪魔」から拝借したものですが、
わたしも一時期、会社に着てゆく洋服はプラダとグッチしか着なかった。
クルマと同じで、それだけで、わたしを見る目が変わる人が確かにいた。
それを馬鹿げたことと思う自分と、その事を利用できると思う、いやらしい自分がいました。
いま日本では、ハイ・ファッションもクルマも、若者達から急速に価値を失いつつあると聞きます。
それは、貧乏であるという事だけではなく、社会全体が大きく舵を切っている証のような気がします。
わたしの仕事は、企業のブランド戦略の一端を担う仕事なのですが、全く今までとは違う価値社会がどんなものか?を、見てみたい。
映画「プラダを着た悪魔」は、有名な映画ですが、
野暮ったい田舎娘が、ブランドの化身のようなメリル・ストリープによって、美しく変身し、それでも最後のアン・ハサウェイの決断を、単なる個人的なものではない視点で観ると面白いです。
本当は、今日はイタリアとオーストリアの選挙のことを、結果が出る前に、書こうと思っていたのですが、それはまたいづれ…。
右翼がダメだとかではなく、アメリカもそうですが、今までの「全否定」、破壊からしか新たなものは生まれない、という思想は危険な気がします。
今、自分が不幸だからと言って、全てをゲームのようにゼロクリアしてしまう。
日本もそうならなければいいのですが…。
今日も、来てくださって、ありがとうございます。