「ゲゲゲの鬼太郎」に見る死生観と北野武。
里山の人形師 coconooです。
こんにちは。
昨日に引き続き、昭和アニメのお話です。
これも生放送ではなく、再々々放送くらいで、しかもカラー版を観たクチですが…。
内容はあまり覚えていないのですが
これも主題歌の唄だけは、ハッキリ覚えています。
ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ~で始まる有名な唄ですが
これまた、歌詞は書けないので
わたしの意訳で。
お化けは楽しい、朝起きなくても好いし、学校もなければ試験も何にもない。
お化けは楽しい、夜は遅くまで遊んで好いし、そもそも死なないし、病気もない。
作詞は水木しげる先生ご本人です。
さすが、生きているうちから「妖怪」だった先生の唄だと思います。(笑)
陰惨な戦争体験が、彼のすべての作品の根っこになっているといわれています。
わたしたち日本人の多くが、特別な宗教を持たず、しかし高い倫理観を持った国というのは、国際的に見ても非常に珍しい。
そんな国で、若者(未熟)たちから「どうして死んではいけないの?」という問いが立てられる。
本来これは「問い」としての体をなしていない。
生者が生者に問うても、そもそも答えなどないからだ。
(宗教があれば「禁止」されているといえるけれども…。)
水木先生が言うように、「お化け=死」は楽しい福音なのだと、「わずらわしさ、決まりごと、生きてゆくこと自体の、病気のつらさ=生」の終わりを示すものだと、受け入れてもいいのではないかと思う。
生の対極として死が怖いもの、わからないから禁忌するもの、というのではなく、「旅は憂いもの辛いもの」というように、生こそがそもそも耐えるものであり、死はその先に用意された安息なのだと考えてみる。
「ひとが死を恐れるのは、二度と死ねないからだ。」
これは、たしか哲学者 岡庭昇の言葉。
わたしは、まだまだそこまでの思考の深さはないけれど、
「どうして死んではいけないの?」ではなく
「運命で死が自然に訪れるまで、死んではならないのだ。」があたりまえなのだ。
自殺しようとするものに、「世の中楽しいことがある、捨てたものではない。」
生の事実がそうであったとしても、生の側からでは、それでは死は止められない。
以前、北野武さんについて触れました。
わたしは彼の映画の特別なファンではないけれど、
生のあり方を企業以上に企業化・組織化した暴力団の暴力に仮託、象徴として描き、その対極として死を救済として描いているような気がします。
彼のすべての映画の「テーマ」はそこにある。と思って観ると、違う映画に見えると思います。
また、思いつつくまま勝手なことを書きました。
今日も、来てくださって、ありがとうございます。