川端康成 「からっぽの人」
里山の人形師 coconooです。
こんにちは。
今日はネタがないので、いつもと趣の違ったテーマで。
わたしは、幼い学生のころから本好きで、毎日いつも何かしら本を持っている人間です。
小説に関しては、
星新一 筒井康隆 日野啓三 中井英夫 澁澤龍彦 村上春樹 小川洋子 津原泰水(翻訳作品がない外国人作家は除く)そして川端康成は、その作家すべての小説を読んできました。
自分でも、一貫性のないラインナップ…。
わたしがその小説(家)達の何に惹かれ、コンプリートする力になっているか?がわかれば、自分がどんな人間かもわかるかも知れませんが、自身にはさっぱりで、わかるのは赤面しながらも、こういった文章を披露できる厚顔だけです…。(笑)
しかし、わたしの作品の読書感想が、ことごとく周りと違う。
「わたしは何か別の同名小説を読んだのか?」というくらい違う…。
下記はその概要ですが…
「伊豆の踊り子」
川端康成の短編小説。伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。
孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊り子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。
孤児根性に歪んでいた青年の自我や感傷が、素朴で清純無垢な踊り子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。(出展:Wikpedea)
わたしの第一印象は「よくこんな悪意に満ちた小説を、中学生の教科書に載せて読ませるとはどういう了見なんだろう。表向き清く正しく美しく、そして民主主義で平等にが日本の教育界ではないのか?」と、本気で心配しました。
わたしには、そんな概要のお話には全然見えない。
これほど、差別意識にまみれ、被差別者に甘く暗い郷愁を抱きながら、差別社会の中の安全な自分を確かめている。
わたしからすると、川端康成という人は、この世のものと思えない美しい文章の中に、何者でもない絶望を抱えた、稀有な「からっぽ (虚空。良いも悪いもない…) 」の怪物に見えます。
みなさんも、一度大人になって読み返す機会があれば…。
写真は残念ながらホンモノの初版ではなく、金星堂の復刻版です。それでも48年前の本。どうしても原書?に近い形で読みたくて、古本屋で探しました。
「禽獣」「みずうみ」「眠れる美女」「山の音」そして、最高で最悪な「片腕」。
彼の変態性欲や猟奇性は取り上げられることもあるようですが、その変態性も「からっぽ」であることの仮装のように見えるのです。変体性で隠さなくてはならない、美しいとしかいえない文章で隠さなければならなかった「からっぽ」。
多くの評論読みましたが、どうもわたしと同じように感じる方のものを目にしません。孤児根性と評されることが多い評論ですが、これは明らかに、川端本人がミスリードしている。
わたしは世界の文豪の作品に、何を言っているのでしょう?
とりあえずわたしは、彼の読者であり、ファンであり、取り付かれた者であり、そして彼に同じ人間とは思えない怖さを感じる。たぶん、レクター博士を目の前にしたような…。
声に出して読むと、口の中に甘やかな香りが広がるような、そんな文章なのに…。
彼はノーベル文学賞を受賞して、その後作品を少ししか残さず、程なく自死してしまいます。世間から唐突に感じられたその自殺も、彼がノーベル賞受賞のときの講話「美しい日本の私」に、わたしは日本の美しさを誰よりも表現できることと、その向うに人間が耐え得る限界を超えた孤独を思います。
なにか主張したいものではありません。あくまでも、個人の感想です。川端康成作品に違うものを感じていらっしゃる方、お許しください。異論、批判は受け入れます。
唐突ですが、いまの現代で言うと、私は北野武さんにも同じ雰囲気を感じます。
生のあり方を企業以上に企業化した暴力団の暴力に仮託し、その対極として死を救済として描いているような気がします。
それは、また機会があれば…
あまり関係ないけど、添付。
今日も、来てくださって、ありがとうございます。